​作曲家

フリードリヒ・ゲルンスハイム(1839-1916年) はドイツ・ヴォルムスのユダヤ人医師の家庭に生まれる。11歳で すでにピアニストとしてフランクフルトで舞台に立った。ライプツィヒ音楽院で学んだ後、パリへ渡りカミーユ・サン=サーンス、ジョアキーヌ・ロッシーニやフランツ・リストらと親交を結ぶ。1865 年にケルン音楽院に招聘され作曲の指導をしていた。しかし彼もまた当時の反ユダヤ主義の犠牲者であった。 ケルン音楽院の校長になることは、彼の信仰によって芸術的に本当に資格があるのかという問いと共に退けられてしまったのである。オランダ・ロッテルダムでフィルハーモニー協会の音楽監督を1890年まで勤め、1897年には王立ベルリン芸術アカデミーの会員となり、1901年からは作曲家アカデミー高等学院の院長を務めた。 ゲルンスハイムは生前、ピアニスト、作曲家として高い評価を受け、1914年の75歳の誕生日にはドルトムントの街で二日間に渡るゲルンスハイム音楽祭が開催された。また、ブラームスやマックス・ブルッフとも親交が深かった。

カール・ゴルトマルク(1830-1915年)は ハンガリーのユダヤ人家庭に生まれ、教会音楽家の息子で貧しい環境に育った。 まずヴァイオリンとピアノ教師として働き、28歳の時に自らの作曲作品を演奏してデビューした。ゴルトマルクは特にオーストリアで活躍し、1875年にウィーンで初演された歌劇「サバの女王」で有名になった。交響詩や室内楽、ピアノ曲、合唱曲も作曲した。

ザーロモン・ヤーダスゾーン (1831-1902年)は、ブレスラウのユダヤ家庭に生まれた。彼は ユダヤ人に比較的寛容だった時期に生まれた世代の一人であった。ライプツィヒ音楽院で作曲を学んだ後、ワイマールでフランツ・リストに師事した。ユダヤ人であったため、ライプツィヒ音楽院の卒業生ならば普通は就職することのできた教会音楽家の資格を得ることができなかったが、1865年にライプツィヒのシナゴーグの聖歌隊で指揮者を務め、母校ライプツィヒ音楽院ではピアノと作曲の指導にあたった。彼はブレーメン歌劇場管弦楽団の指揮者を勤め、1873年には王室の教授と任命された。1902年にライプツィヒで没した。ヤーダスゾーンはオルガンや合唱曲の他、室内楽、ピアノ曲、交響曲も作曲し、ピアニストとしても活躍し、彼の音楽理論書の著作も高い評価を受けていた。ヤーダスゾーンのいくつかの作品はライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団やライプツィヒ・トーマス教会少年合唱団によって演奏された。